去年の今頃、発信したこと。
ふたたび心によみがえったので、掘り出してみた。
■息するモノ「いきもの」
動物は呼吸して生きている。
古代の人々もそのことを把握していた。
というか、現代人は多忙にかまけて息していることを忘れがちなのに比べ、
彼らはむしろ強く息を意識していただろう。
日本人は息するものをイキモノといい、
英語民の祖先もanima(ラテン語で「呼吸」)する「もの」を
animalと呼んでいることなどからもそれは想像できる。
どの時代人にとっても、息をしているか、どんな息をしているかは、
イキモノの生死や心身の状態を知る大きな手がかりであることにかわりない。
息は、呼気と吸気が交互に行われて成り立つ。
息の重要性については人類共通だが、
呼気・吸気のイメージは違う場合もある。
日本では、赤ん坊がオギャーと叫んで呼気から人生をスタートし、
死んだ人は最後の息を吐かなくなり、「息を引き取る」と考えた。
自然は循環することを捉えていた日本人の祖先は、
最後に引き取った息はあの世で保たれ、
次に生まれるときオギャーと出されて循環するとイメージしたのかもしれない。
「気を吐く」は、元気溢れる状態をいう。
私たちヒトの呼吸は、意識によってコントロールすることもできる。
感情が舞い上がってしまいそうなとき、
痛みに耐えるとき、
落胆のとき、
落ち着かないとき、
眠れないとき、
大きな呼吸に意識を集め、
意志によってリズムをゆったり整えることで、
心拍数や血圧も整え、感情を鎮めるのを助けられる。
また、積極的に呼吸で体内の快状態を呼び戻す。
あえて一時的に酸素過多によるめまいを起こしたり
息を止めるなどしてトランス状態を招く。
他とともに音声や動作を伴う息を合わせて快の連鎖を招くなど、
意識的な呼吸は、さまざまに心身を操る可能性をもつ。
息の状態は、身体の動きと深くかかわる。
そしてそれらは感情・心の状態とも深くかかわる。
原始の人々はそのことを直観していた。
そして、元気を取りもどす息と動きを仲間と共に行い、
互いに癒し合ったと想う。
発声のしくみや音と感覚のつながりを科学的に調べると面白いかもしれない。
けれど肝心なのは、分析よりも総合。
「身体は、美しいふるえから快を感じる楽器」 なのだと私は思う。
身体は生きてふるえたがっている。
その振動が宇宙の果てにつながるようなふるえを求めて息をしている。
宇宙までとはいわず、隣の人と波動がつながるだけでもうれしい。
それぞれ顔が違うように、身体という楽器も一つ一つに個性と経歴を持つが、
違いを超えて響き合うと快く、体内の循環もよくなる。
中が詰まっていたり、重しをのせられた楽器は響かない。
呼吸法や瞑想法は無数にあり、先人の発見の積み上げを学ぶのはすばらしいが、
そのどれかの奴隷となることはない。
まずは鳴らしたり叩いたりしながら、
楽器としての自分の身体の感性に正直に まっすぐ耳澄ますことが大切だろう。
ふたたび心によみがえったので、掘り出してみた。
■息するモノ「いきもの」
動物は呼吸して生きている。
古代の人々もそのことを把握していた。
というか、現代人は多忙にかまけて息していることを忘れがちなのに比べ、
彼らはむしろ強く息を意識していただろう。
日本人は息するものをイキモノといい、
英語民の祖先もanima(ラテン語で「呼吸」)する「もの」を
animalと呼んでいることなどからもそれは想像できる。
どの時代人にとっても、息をしているか、どんな息をしているかは、
イキモノの生死や心身の状態を知る大きな手がかりであることにかわりない。
息は、呼気と吸気が交互に行われて成り立つ。
息の重要性については人類共通だが、
呼気・吸気のイメージは違う場合もある。
日本では、赤ん坊がオギャーと叫んで呼気から人生をスタートし、
死んだ人は最後の息を吐かなくなり、「息を引き取る」と考えた。
自然は循環することを捉えていた日本人の祖先は、
最後に引き取った息はあの世で保たれ、
次に生まれるときオギャーと出されて循環するとイメージしたのかもしれない。
「気を吐く」は、元気溢れる状態をいう。
私たちヒトの呼吸は、意識によってコントロールすることもできる。
感情が舞い上がってしまいそうなとき、
痛みに耐えるとき、
落胆のとき、
落ち着かないとき、
眠れないとき、
大きな呼吸に意識を集め、
意志によってリズムをゆったり整えることで、
心拍数や血圧も整え、感情を鎮めるのを助けられる。
また、積極的に呼吸で体内の快状態を呼び戻す。
あえて一時的に酸素過多によるめまいを起こしたり
息を止めるなどしてトランス状態を招く。
他とともに音声や動作を伴う息を合わせて快の連鎖を招くなど、
意識的な呼吸は、さまざまに心身を操る可能性をもつ。
息の状態は、身体の動きと深くかかわる。
そしてそれらは感情・心の状態とも深くかかわる。
原始の人々はそのことを直観していた。
そして、元気を取りもどす息と動きを仲間と共に行い、
互いに癒し合ったと想う。
発声のしくみや音と感覚のつながりを科学的に調べると面白いかもしれない。
けれど肝心なのは、分析よりも総合。
「身体は、美しいふるえから快を感じる楽器」 なのだと私は思う。
身体は生きてふるえたがっている。
その振動が宇宙の果てにつながるようなふるえを求めて息をしている。
宇宙までとはいわず、隣の人と波動がつながるだけでもうれしい。
それぞれ顔が違うように、身体という楽器も一つ一つに個性と経歴を持つが、
違いを超えて響き合うと快く、体内の循環もよくなる。
中が詰まっていたり、重しをのせられた楽器は響かない。
呼吸法や瞑想法は無数にあり、先人の発見の積み上げを学ぶのはすばらしいが、
そのどれかの奴隷となることはない。
まずは鳴らしたり叩いたりしながら、
楽器としての自分の身体の感性に正直に まっすぐ耳澄ますことが大切だろう。